*春時雨の涙*

どうしようもない…のは、わかってる。




ジュディは迷っていた。

そこはある人が住む部屋の扉の前。
目の前にはインターホン。

彼女の髪からはぽたぽたと雫が垂れていて、足元に落ちては跳ねるの繰り返し。
たまった水溜りの大きさからは、長いことそこに立っているらしいことが伺えた。
彼女はこんな季節にもかかわらず袖のない格好をしていて、尚且つその状態で全身濡れていた。

外は雨。
雨粒がコンクリートに叩きつけられる音に、空気が震える。

ジュディは扉の前で迷いながら、両腕で大事そうに抱えているもの…青い色をした厚手のジャンバーに目をやった。
そして、まるで泣くのを必死で堪えるかのような表情をしながら、抱えたそれをぎゅっと抱きしめた。

暫くは、それの繰り返し。

それから数分後。漸く彼女の足が動いた。

悲しそうな表情で一度扉を見つめた後、一歩後退り、向きを変える。
「やっぱり…やめよう…」
小さな声で呟く。

「…何を?」
扉の前を後にしようとして歩き出した時、不意に目の前から声をかけられ、彼女は飛び上がる勢いで驚いた。
その驚きぶりには流石に声をかけた方も驚いた。
「ぁ…神っ…」
「お、おう…。悪ぃな、まさかそんなに驚くとは思わなかったんだけど…」
声をかけた彼…MZDは目を丸くして驚く彼女に言った。
しかしジュディは驚きのあまり、そんな彼に対して言葉を返すことも出来なかった。

「あ…ああ、そうそう。なんか用だったのか?ずっと俺の家の前にいたみたいだったけど…」
MZDが外出先から帰ってきたときには既に自分の家の前に立っているジュディがいた。
自分の家の目の前で何か真剣に悩むようにして立っている彼女に対し、
その雰囲気から気軽に声をかけることも出来ず、とりあえず様子を見た方がいいかな…とずっと後ろの柱の影に隠れて様子を伺っていた。
インターホンを押したらその時に声をかけてやればいいか、と思っていたのだが、音を鳴らす気配もないし扉をノックする素振りもない。
何か悩んでいるようだが、ただそこに立っているだけ…何故?
そんなことを思っていたら、突然彼女が踵を返してこっちに向かってくるではないか。
そこで慌てて声をかけたものだから、驚かせてしまったのはわかるが、
どうも驚かれたのはそれ以外の原因もあるようだ。

「…い、いつから…見てたノ?」
漸く声を出せるようになったジュディが、おずおずと尋ねる。
「いや…?帰って来たときに丁度そこにお前が立ってたもんだから、何してるのかなーって思って見てただけなんだが…」
帰って来たのはついさっきな。そうMZDは付け加えた。
「そ、そっか…」
ジュディはハハハ、と笑った。つられてMZDも笑った。
そして何事もなかったかのように彼女はMZDの横を通り抜けようとする。

「ってちょっと待てジュディ!」
MZDが慌てて彼女の肩を掴む。すると肩に触れた掌から熱を奪われるような感触が。

…冷たい…?

MZDは驚いて思わず手を離した。
ジュディは振り向かずに、
「…何でもない…カラ。気にしないで」
そう言って改めてその場を後にしようと歩き出した。だが、
「だからちょっと待てっつーの!」
再度MZDがジュディの肩を掴んで引き止めた。彼は今度は手を離さなかった。
「やっぱり冷て…お前、体完全に冷え切ってるじゃねーか…こんなになるまで何をしてたんだ」
MZDの問いに、ジュディは口を紡ぐ。
「大方、それも関連して俺に用があって来たんだろ?せめて事情くらい説明…」
「だから、何でもナイの!!」
MZDの言葉を遮って、ジュディが叫ぶように返した。
「なんでもなくねぇだろ!体冷やすまでずぶ濡れになって、泣きそうな顔して、それでもなんでもないって言うのかよ!?」
あまりにもムキになってジュディが何もないと嘘をつくものだから、MZDもついかっとなって大声になった。
「ぅ…なんでもナイ…!だから…だから放して!」
そう叫ぶジュディの目から、堪えていたはずの涙がこぼれた。
「ジュディ…?」
「…こ、困らすダケだから!わかってるノ!!だから…だからっ…!!」
一度こぼれた涙は次々と溢れて止まらない。
彼の手を伝ってくる暖かさが、温もりが、余計に涙を溢れさせた。

必死になってそう言う彼女。…俺を困らす?何故?
ふと、MZDは彼女が大事そうに抱えているものに視線を移した。
厚手のジャンバー。以前に彼女が着ているのを見たことがある。
「それ、どうかしたのか?」
MZDの問いかけにジュディの肩が一瞬ビクッと反応する。
彼女は俯いて、体全体でそれを覆い隠すかのように少し身を屈めて動きを止める。
もうどうしていいかわからない、そう言っているかのように。

ふぅ…
MZDは小さく溜息一つ吐き、濡れた彼女の頭をそっと優しく撫でる。
「あのなぁ、俺は神だぞ?そんじょそこらのことじゃ困ったりしねーよ。それよか悩んでるお前を放っておくような状況になることの方が困るんだぜ?」
な?諭すように彼は言った。
その言葉を聞いても彼女は面を上げなかったが、少しだけジャンバーを抱えていた腕の力を抜いたのがわかった。
これ、なんかあるのか…?MZDは彼女の腕からそっとジャンバーを取り出した。
そして、初めてそこにジャンバー以外のものの重さがあることに気付く。
不思議に思い、彼はジャンバーの内側を覗き…そして一瞬言葉を失った。
ジュディは俯いたまま暫く何も言わなかった。けれど、
「…ね?やっぱり…困るデショ?」
だから最初に言ったよ?と涙を手で拭いながら、複雑な笑みを浮かべてそう口にした。

MZDはサングラスの下で目を伏せ、ほんの一瞬だけ、彼女を引き止めた事を後悔した。


重い。
外の冷たい空気から護られるように暖かな布に包まれていたそれは、 灯火を失った器。
灰色の毛に覆われた、小さな身体。

「…ゴメンね…」
沈黙する彼に、ジュディは静かに言った。
困らせたくはなかった。だから躊躇した。
頼れるのは彼しかいないと走ったけれど…どこかで走るべきではなかったとも思った。
せめて…まだ、間に合えばよかったのに。

そう思うと、また涙が出た。
それは非力な自分に対する涙だった。
自分ひとりの手では、助けを求めて叫ぶ命を助けることが出来なかった。
それはずっと、ずっと力いっぱい叫んでいた。そして自分はずっとそれを聞いていた。
その叫び声を聞いていたのに、そして助けたいと思って手を伸ばしたのに。
必死で助けてあげられる場所を探した。でも病院がどこにあるかわからなかった。
だからとっさにここに来た。
彼ならなんとかしてくれると、そう思って。

けれど、ここに辿りつく一歩手前、彼の住むマンションの階段を駆け上がる前にはもう
既にその灯火は消えていた。

勿論、すぐにそれに気付いた。
けれど…足を止めなかった。息を切らしながら階段を上り、彼の部屋の前までやってきた。
そこで初めて足を止めた。
もう手遅れなのに…でも、それを知って尚、彼に縋るということはどういうことか。

言うまでも…ない。
彼にはそれが出来る。だって、彼は神様なのだから。


MZDは漸く重かった瞼を上げ、目の前にいる少女を見る。
「…で、俺に何を願う?」
彼は抑揚のない声で言った。口の端を少し上げたが笑ってはいなかった。
今更訊かなくても分かっていることを、彼はあえて訊いた。
この状況で願うことなど、唯一つ。

彼は自分の腕の中にある小さな躯をそっと撫でた。
まだ 不揃いの毛、それは生まれて間もなかったということを謳っていた。

ジュディは目の前でその光景をじっと見ていた。
あの小さな身体と同じように冷え切っていた自分の身体。
けれど、彼にさっき触れられた所から微かに熱が燈る。
自分にはあって、その子からは失われたそれが、死というものについて余計な程はっきりと伝えてくる。



「じゃぁ…オネガイ、してもいい?」
小声で彼女は言った。
「…どうぞ」




「あのね…ちょっとの間ダケでいいから、この雨を止めて欲しいの」
屋根の隙間から見える雨雲で埋まった空を見上げながら、 ジュディは言った。



「…は?」
MZDは思わず眉間に皺を寄せて、つい変な声を上げた。
雨…だって?
今、空を覆う灰色の雲の中から無数の雫が地上に降り注いでいる。
これを止めるなど彼にとっては勿論造作ないことだ。
彼が想定していた願いを叶える事よりも…遥かに。
だが、理解が出来ない。何故この状況でそんなことを言う?

「その子を生き返らせてクダサイ、ってオネガイすると思った?」
意外だといわんばかりのMZDの表情を読み取って、ジュディは悪戯っぽく笑った。
そして彼の腕からさっきまで自分が抱きかかえていたものをそっと取り上げる。
「ちゃんと分かってるカラ、一度失われた命は、もう戻らないってコト」
そう言って、ジュディは目を閉じた。

命は重くて尊いもの。それは大小長短関係なく等しいもの。
故に無闇にそのあり方を歪める事のできないもの。
どんなに神様にお願いしても、一度消えた命を取り戻すことなんてできやしない。
たとえ神様が命を甦らせられるような力を持っているとしても、神様は絶対にそれをしない。
そうでしょ?とジュディはMZDに言った。

それがわかってるから…彼女は彼の部屋の前で足を止めた。
扉の向こうにいるであろう彼を呼び出すか出すまいか悩んだ。悩んで、そして何もせずに引き返そうと思った。
確かに、この子が死んだことを知っても尚、階段を駆け上ったのは、
神なら生き返らせてくれるかもしれないという想いが心のどこかにあったから…

でも、この子を助けられなかったのは、自分のせい。
たまたま傘を忘れて、仕方なく走って雨宿りできそうな所を探している最中に偶然に出くわした光景。
道端で激しく降る雨の音にかき消されそうになりながら、必至でこの子は助けてと叫んでいた。
自分はたまたまそれを聞いてしまっただけ。でも、それが聞こえたからこそ手を伸ばした。
少しでも暖めてあげたくて羽織っていたジャケットに小さな身体を包んでやった。熱を逃がさないように、雨に打たれないように抱えてやった。
助けてあげたくて走った。途中から小さくなっていく声に、頑張ってと願ってもそれは届かなかった。
結局、自分が非力なせいで助けてあげられなかった。
それが悔しくて、悔しくて…涙が溢れた。

「…自分に出来なかったコト、今更神様に押し付けようなんて勝手ダヨネ」
「ジュディ…」
これ以上涙を見られないよう、ジュディはMZDに背を向けて、雨雲が埋め尽くす空を見上げた。

「もし…雨が止んだら…何をするんだ?」
MZDはジュディに問いかけた。
「うん、この子をどこか静かな…土の中に返してあげたいカラ…その場所を探すノ」
ジュディの答えに、MZDはそうか、と頷いた。
そして、小さな躯を抱える彼女の手を取り、優しく微笑んだ。
開かれた瞳から毀れ頬を伝う彼女の涙が、まだ斑にしか生え揃っていない灰色の毛の間に落ちたその時、
MZDの瞳の色がサングラスの奥で静かに変わった。と同時に小さな子猫の亡骸を暖かい光が包み込んだ。
ジュディが戸惑いながら自分の手の中で起こる様子をじっと見つめ…そして瞳を瞬かせたその時、
その光は一瞬にして空に上り、真っ直ぐな線を描いて雨雲を突き抜けた。
光が貫いてできた雲の隙間から風が巻き起こる。みるみるうちに雨雲が四散し、雨が止んだ。
空はその時、薄い赤色から濃紺へのグラデーションを彩っていた。その間を小さくも力強い星の光が輝く。



ジュディは暫くの間呆然と晴れた空を見上げていた。
MZDも一緒にその空を見上げた。

「…さて、願い事はこんな感じでいいか?」
ニコリと笑うMZDの瞳は、いつもと同じ色に戻っていた。
「…あの子は…どこに?」
「まだ生まれて間もない命だったみたいだからな…。空の上を流れる光に乗せてやれば、またすぐに新しい生命としてこの地上に戻ってこれる」
元の通りに生き返らせることは、どんなに願われても祈られても出来ない。
けれどその代わり、また新しい命として生まれ変わるための『手助け』ならできるから。
MZDはそう言って、ジュディに「ありがとう。」と一言礼を言った。

どうして…?お礼を言われてジュディは戸惑った。
だって何もできなかったのに、お礼なんていわれる理由がない。
「声を聞いて、手を伸ばして暖めてやっただろ?命を救うことは出来なかったとしても、あの子の魂はそれだけで救われてたはずだぜ?」
生前に一度でも優しさを知ることが出来たのとそうでなかったのとでは、生まれ変わる時にも影響してくるものだから。
だから、ちゃんとジュディにはジュディのしてあげられることをしてあげたんだよ。
まぁ、それがどういうことなのか今はわからなくても、この先必ずそれが実を結んで返ってくる筈だから…

「だから、自分を責める必要なんてどこにもないんだって。な?」
MZDのその言葉を聞いて、ジュディの瞳からはまた涙が溢れた。
なんだか一緒に自分も救われたような気がして、嬉しかった…。
「ありがとう…」
目は涙ですっかり腫れていたけれど、心の中は今のこの空と同じように晴れていた。
ここに来て…良かったのかもしれない。
そうでなかったら、きっと暫くの間心の中で色々なことを抱えたまま過ごしていただろうから。


『助けてくれて、本当にありがとう。』

声ではない声が3つ、重なる。



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灰色子猫と神とジュディのお話。
(20060321)



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photo by 空色地図 -sorairo no chizu- +++thanks!!